デザイン

デザインについて気づいたことがある。

デザインには「クセ」が必要だ。


機能を追求すると製品は美しくなる」そうおもってきたし、「機能美こそ全て。」はよく聞く事実だ。しかし、例外を見るたびに疑念はつのった。

機能を追求する前に、製品はそもそもの目的がある。そして表層数ミリなり数センチに製品を印象づける領域がある。「どのような物を目指しているか」で、仕上がりの印象は大きく変わる。それはデザイナー、プロデューサーなど、プロジェクトを率いる人の美意識に着地する。今まで美しいとおもった経験が間違いなく反映されるだろう。美しい、クールである、おもしろい、感動した、目指すデザインを体感した経験のたりない人間にプロデュースさせることは中途半端な物を生み出す事を意味する。

兎に角、良い物も悪い物も、関係在る物も無いと思われそうな物でも、地球上の多様性をおおいに経験し、メリットとデメリットを考えて自分の脳の引き出しにしまうのが大切。なぜならこの引き出しは使うためにあるからだ。見て感心する、写真にとるだけでは観光客だ。しっかりと善し悪し以上の細部を体験し、使えるように技術と雰囲気を覚える。人は、覚えたくない物事は覚えられないが得意な物事は覚えられるように出来ている。最近情報止まりで口うるさい人が多い。じゃあやってみろ。競争だというときに、戦えるだろうか?

酔っぱらいがプロのピッチャーにテレビ見ながらだめ出ししてるのとはちがうのだから。


さらに、機能を追求しすぎると落とし穴がある。勘違いしてもらっては困るが機能はおおよそ正義である。機能重視の道具に機能がないのはクソだ。機能が下がって見た目だけのがっかり商品ほど「しょうもない」物は無い。機能は一辺倒に美しいデザインのゴールではないという意味であり、これだけデザインが大衆化した今、機能美だけが正解ではない事に目を向けたいと言うことで、機能美賞賛の話はもういらないと言う意味だ。


去年起こった出来事である。僕は家具の知識はまるでないし興味もない。名前は気にせずほしいものを適当な値段でかう。誰々の物だからという理由で購入した家具はひとつもない。家の椅子はどれも中途半端で、でもそれぞれいい姿をしている。そして、ふと気づいたのである。そういえば角打ちの店でビールケースに座布団を引いて座ったり、板きれで背もたれが壁とかいう椅子にそれほど不満がなかったことを。そこへきて家具好きの友人が散々試してたどり着いた座り心地の良い椅子の答えは、ビーズクッションだと言うので心底がっかりした。あんなもの家に置きたくないからである。快適性は他の要素も大きく作用する。追求しまくるもよしだが、どういう使い方をするかなのだから、大げさに言うと座り心地は二の次でよいのだとさえおもう。大体の椅子は座れるのだ。

そしてデザインするのにたどり着いた答えはこうだ。


まず、うつくしい作りたい物を創造する。そして、その美しさに機能をのせる。


「あなたは、この世に生まれて何を美しいとおもっていますか?なにをいいとおもって物をつくっていますか?」そう問われているだけだと思ってよい。僕の基準は「生きてて気分がいい物を使いたい。」むしろどんなに機能的でも家に合わない物やダサイ物はいらない。ファッションも同じかんがえだ。そしてその基準は自分で決める。北欧の真似やアメリカの真似は既に大衆消費デザインであり、パーキングエリアやコンビニに落とし込まれる物だ。北欧風にするのも、アメリカ風にするのも、フランス風にするのも、すごく簡単である。プロのデザイナーが関わる仕事はもっとクリエイティブであり人々を豊にしなければいけない。


機能を追求するには本を読みまじめに教えてもらえば誰でも出来る。それは、英語の文法をキレイに使いこなせるか?であって人間のおもしろみとは全く関係ない。切り捨てようのない「クセ」がその人にあることがデザインにとって大切である。

言葉のスパーリング

言葉は雑だ。
ほぼほとんどの人間が使う意志共有の機能「言葉」まるで当たり前のように使われているが最近日々その不信感はつのるいっぽう。

もちろん言葉を巧みに操りこちらに物事をうまく伝えてくる人もいる。一方、自分が言葉にするとなんだかスッカラケの印象になり、なんかそんなことを伝えたいんじゃないという事に良く直面する。使う単語やつなぐ言葉や話すテンポで表現が変わる。役者や脚本、歌舞伎、落語なんかはそういうことを大事なんだろな。

人は人がしゃべっている時にカットインして話をぶち切る事は難しい。それをいい事にだまってれば「おまえさっきからいうてること同じやないかっ!」
「何が言いたいねん?はよ用件いえ!」とケツを蹴っ飛ばしたくなる曲面がすごくよくある。
しゃべって君がすっきりするために聞いてるんじゃないんだよ!仕事面して選択肢もよういしてない用件もってくるなといいたい。アホな打ち合わせで戦闘力の低い人間とはなすと辟易する。しゃべった事実と、つたわった事実とは別だ。ときどき僕は意図的に強引にカットインする。「その、落ちも結論も見えない話、まとめてこなかった事、今それらしくしゃべってみてますみたいなクズ共有は最後までしゃべらせないぜ」という気持ちでカットインする。

そこに来て、あまりしゃべらない人からも色々かんじる事も多々ある。いま黙ってるけどなんとなくあいつの気持ち解る気がする。的な。対峙していると色々な情報(表情や姿)で話さなくてもこの人は今こういう状態だなとよみとれることは確実にある。もちろん勝手な思い込みだけど。

話すとき、書くとき、それぞれの言葉はそれほどあてにはならないが、凶器のように働くこともあり「言葉」はホント使うのが難しい。環境を作る、絵に描くというのは僕にはなんの苦もなくさくさく出来る事だ。なぜならほとんどの問いには映像が見えるからだ。それを作っていく。直ぐに絵が見えるためにいろんな物を日頃インプットしているといえる。絵が見えるから道具や素材をつかってそこに向かう。
画材や道具と違い「言葉」はホントに難しい。イメージは出来てるのになんてかけばかっこよく、すぱっと過不足なく丁度の文章がかけるのだろう?

そんな難しいフィールドにあるブログである。訓練のために、もっと頻繁に文字とスパーリングすることにした。アウトプットのスパーリングである。言葉は雑であるが、筆と同じ訓練すると旨くなるかもしれない魅力的な機能だ。そんなわけで、さまざまな言葉で実験していこうと思う。

メモ?
愚痴?
閃き?
そんな日記になりそう



センス

センスとは何を好きになったか?

うまれてきて、様々な物を目にして体感し、そして好きな物や瞬間を選んで繰り返したり集めたりする、そうすることでその物事に詳しくなり、ひとめではえれない感覚が身についてくる。

この集積がセンスの源である。
生まれもっているものというのは半分嘘である。
生まれもっているのは遺伝子のもつ可能性のみだ。
行動や見てきた物の少ない人にはこの限界が限られるが、少ないチャンスでそれを物にする人もいる。

時間がかかろうが、かかろまいが、それがセンス。
思わず心動く好きな物の集積がセンスとなる。

ダサイ物しか見てない奴にかっこいい物など作れない。
似た人のまわりには似た人が集まる。

センスとは好きな物にどれだけ時間を割いたかで磨かれる。
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18才から、誰に習うわけでもなくアートに携わり、意味も分からず本能の示す作品に失敗を繰り返し自分と向きあった。そんな自分かってが才能とされるARTにおいても社会とのつながりは不可欠である事は、友人が格好つけて嘘ぶいてもビジネスの重要性を感じ続けた。

物を生み出すのもおもしろいがビジネスするのもおもしろいと感じるのは僕の性分でもある。そして、その両方に携わり続けながらこう思う。


アートとは消費社会の中で最も高単価のコピーできない商品でありその反対側に大量生産商品がある。片方が黒で反対が白とするならば、全域にわたりグレーゾーンが最も多い。デザインもこの中に存在している。デザインがARTの価値を抜くこともあり価値の転換は大いにおこっている(デュシャンもそうしてARTの揚げ足を取ったわけだ)。

私にとってARTとは"新しい価値を生み世界を押し広げる物"である。そこで私はグレーゾーンのもっともグレーな物事に目を付け、それを「アートブランド」と名付けた。

はっきりと価値があるといいたいからだ。

どっち取らずでクオリティーの低い物は低俗であればいいし、グレーゾーンにありながらも高級な表現はある。

アートブランドはビジネスを包括したART行為である。


CALMAの展示はどこかの部族の生活を垣間見たような物にみえる。ART

らしさという、どこかのコピペではない作品や行為を続けているとどことなく全体が小さな部族のようにみえてきたからそう表現している。それは、最小単位の社会であり会社であるようにもうつる。


これは興味を持ったことに対し、生み出された全てを織り込める生きた芸術。芸術は一部の金持ちや、芸術だけに興味がある人の物であってはいけない。もっと、ワサワサと現代人に影響を与える生きたARTとして社会にのさばらねば意味がない。



新潟県岩室温泉 だいろの湯

やっぱ温泉は硫黄温泉である。
ゆで卵の臭いに例えられるが、カチ湯での湯で卵はむしろ嫌いであるが硫黄温泉の臭いをかぐと食欲すら湧いてくる。
おいしいとは違う、なんともいえないいやされるかおりである。

僕ははっきり言って泉質などわからない。
わかるといいはる人の90%はインチキだとおもっている。
泉質表記なしでユニットバスに温泉水入れて泉質ソムリエでも出来れば信じるが、あっちの湯があーだこーだいっていることに僕はまるでついていけないし信じてない。
むしろ、色、臭い、こてこてについた湯口の結晶をみて「あ〜 ええ湯だな〜。」とおもうのである。

新潟市三条市で展示会をしているがトレーラー生活で風呂がない。
なんどか弥彦にある岩室温泉に入湯したがここの温泉は硫黄温泉で冷え始めた秋の空気にけむりたつその露天風呂、かおる硫黄がこころから癒されるのである。

岩室温泉 だいろの湯

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online car magazine "DRIVETURU"神保君がカルマの記事を書いてくれた。渋る彼を壮大な山に連れ出したがアレでチ○ポたた無い男と気があうわけない。バイクはARTじゃないとか言う次元とか、オフロードバイクがどうとか言う次元をこの行為は越えている。
自由に空飛べる道具をみておもしろくないって行ってるようなもんだからね。初めて人が火をおこしたり空を飛んだりしてるのと同じだと考えてるから、やったことない人は単純に大事な経験をおざなりにしてるとおもう。
外からの目の文章はおもしろいですよ。

写真は嶌原佑矢(https://yuyashimahara.com/profile)いつも思い通以上の写真をとってくれるので来てくれると気分すら良い。どんどん展示をしてたくさんのひとに


http://drivethru.jp/report/summer-memory


アートを"狩る"男
BOBLへの道のチームメンバー、岡本亮は類い稀な存在である。彼は兵庫をベースに活動しているが、都内はもとより日本各地で会う機会が極めて高い。単純にフットワークが軽いといえばそれまでだが、どんな時でも本能の赴くままに行動できる彼の姿勢は表現力と直結している。そんな岡本が昨年、立ち上げたアートブランド『CALMA』は、岡本の行動をより広義な意味でブーストさせるアートプロジェクトといえよう。主なフィールドは山、川、海と多岐にわたり、時にオフロードバイクにまたがりエンデューロレースに熱中する日もあれば、時としてヤスを片手に川へ潜って魚を突いてみたりとかなり狩猟的。

ここで紹介する数枚の画像は、今年7月初旬に行われた『Dawn of a new tribe』と題して行われた東京エキシビジョンの模様だ。この展示を皮切りに、日本各地でその土地土地にちなんだ展示を計画中。
・・・WEBに続く→http://drivethru.jp/report/summer-memory


ART

絵は語りすぎるとつまらない

漫画は語りすぎて、それ以上にならない


壮大な地形が好きだ

物事の見方を発明し 具現化する事

~な理由です~に関心が出てきた


見えるものばかりが全ての世の中になってきた。

人間の一番の面白みは見えない思い込みにあるのに。


信じるリアリティ  現代人の信じるリアリティちは対人 対物でしかない。こうして世界は狭くなってゆく。


糞アナログで未来を感じる作品作り

人口では無い、生き物を戴く命の尊さ 生き物  料理....


ビジュアルの強度

要らないから 安い

薬と金しか要らない時代

信じる信仰対象を信じ 師への恐れ敬いなどが相まって形に緊張感が出る。



骨董の信仰対象は観させる強度がある。

作り手が神を信じ敬い形を作り時代を経たからだ

石を選ぶ時にも美の強度で選んでいる。

時代の強度は充分であるが造形美として人を惹きつける強度があるかどうか?が重要



僕の好きなアートは得ることによって価値観や好みまで変わってしまうような影響力を秘めたアートである。美しかったり面白かったりするのは当然ではあるが二の次である。


形だけを真似た現代の信仰対象は建具のような美しさしかない。対象を信仰していないからだ。しかし、一流の建具屋のものはいまだに美しい。建築美を信じそれに徹しているからだろうか?


新しく作るものならば建築物、建具の方が人を惹きつける強度を作ることができる。


it's all in your mind.

daydream about the future 

it's just your imagination 



自然を見たいようにデザインするのではなく自然を見たときとおんなじ感覚を作品から与えるようなものを作る


壮大で膨大な広がり質量

天候のドラマチックさ

時間の無限

美しい無限の色と光



神社や寺は 神を信じ崇め願う場所ではなく そういう時代があった博物館的観光施設になった


僕が信じているものは もっとラフで繊細な時を経た地球と言う物質の奇跡

今信じるべきはこの何でもない日常にある奇跡である。


神を崇めるに値する 建築物、神社、寺、教会は過去のものになり、

我々はこの自然のとてつもない時間を、何に入れ奉る事が妥当であるのか?

今回は神を信じた時代の神の家 厨子の祠を借りる事にした。


信じた物、事にこそ 信じた人の力や能力は反映される。 信じる力とは ありもしない事実を創り上げる事ができるのだ。

ーーー

人は何を信じているかである


自然科学は優しく残酷だ

自分を踏まえた人間は曖昧でゆるく弱い

ただそこにあるだけ


一番人の及ばない力 それは時間

ARTの手始め

生きて居る時間の経過の中で、様々な生活情報にまみれて埋もれた美意識・潜在意識を掘り出す作業。


若いうちに意識の中に存在するセンスが素直に出せる環境で形にでき、尚かつ社会の流れとマッチした人は幸運である。

そうでない人間が大半である社会で、確実に存在する自分の美意識を紛れた情報に惑わされずあきらめず整理し、純粋でクリアな自分だけの美意識を掘り当てることがアーティストのもっとも重要な仕事である。

お金になる仕事よりも

最も美しく、尊い行為。この行為を追い求めるには自分を信じる力が必要で、権力や周りやお金に惑わされない探求心への強い愛が必要だ。


登山のようにどんどん世界が澄み渡って見えてくる登山の途中

僕はそろそろ掘り当てたきがした。

だいぶ上まで登って来れた。

まだこの先があるはずだからどんどんのぼっていく。


まだみぬART行為をもとめて。



正論という退屈

泥水であそんだ新鮮なおもい
思い存分怪我をして衣服を汚した爽快感

知識で考え選ぶとまともな答えが手に入るが、爽快感や新鮮な思いは手に入るだろうか?合理的とは大人の武器である。まじめに考えれば出る答え。

解っているからやらないのでも、わからないからやるのでもなく体験したいからやるのだ。
意味などあってもなくてもどっちでもいい。
俺に関係があるのは事実を体感して脳みそが感動で痺れること。

年齢を重ねると、人も犬もやることがへる。無駄な動きをしたがらない。
無駄のない道がみえるから、無駄を省いてスムーズに生きようとしてしまう。
道がある、道が解るものは新しく得るものが少ない。
人生はオフロードであるべきだ。




ユートピア


まともなことと言うのはつまらない。
くだらないことは わらえる。
正直者はつまらない。
たしょうの嘘があるほうが わらえる。

どんなにつっこみがうまくても
愛がだせていない突っ込みは笑えない。

何故、人は似ている物をみつけたがり、ものまねをおもしろがるのだろう。
まねされた人にまねした人がにていると、なぜうれしくなりおもしろいのだろう。

答えは分からない方がおもしろい。
答えが分かると、なーんだそんなことかと飽きてくる。

見つけたことをえらそうにこたえる人や、そうする時の自分が醜くい。
とんでもない事に気づいても、正しい事なんて六すっぽやくにたたないし、おかしくない。

えらそうに人に言えることと言えば
ワープしたり
過去や未来に移動できるぐらいの理論が証明できたときぐらい。
それ以外はさほどたいしたことではない。

とりとめもない抽象的な答えを探し
これだと分かる具象にすることをやめられないでいる。

ユーモアで病気は治せないが、正論よりも、ユーモアの方が大切だろ。


ユートピア