言葉のスパーリング

言葉は雑だ。
ほぼほとんどの人間が使う意志共有の機能「言葉」まるで当たり前のように使われているが最近日々その不信感はつのるいっぽう。

もちろん言葉を巧みに操りこちらに物事をうまく伝えてくる人もいる。一方、自分が言葉にするとなんだかスッカラケの印象になり、なんかそんなことを伝えたいんじゃないという事に良く直面する。使う単語やつなぐ言葉や話すテンポで表現が変わる。役者や脚本、歌舞伎、落語なんかはそういうことを大事なんだろな。

人は人がしゃべっている時にカットインして話をぶち切る事は難しい。それをいい事にだまってれば「おまえさっきからいうてること同じやないかっ!」
「何が言いたいねん?はよ用件いえ!」とケツを蹴っ飛ばしたくなる曲面がすごくよくある。
しゃべって君がすっきりするために聞いてるんじゃないんだよ!仕事面して選択肢もよういしてない用件もってくるなといいたい。アホな打ち合わせで戦闘力の低い人間とはなすと辟易する。しゃべった事実と、つたわった事実とは別だ。ときどき僕は意図的に強引にカットインする。「その、落ちも結論も見えない話、まとめてこなかった事、今それらしくしゃべってみてますみたいなクズ共有は最後までしゃべらせないぜ」という気持ちでカットインする。

そこに来て、あまりしゃべらない人からも色々かんじる事も多々ある。いま黙ってるけどなんとなくあいつの気持ち解る気がする。的な。対峙していると色々な情報(表情や姿)で話さなくてもこの人は今こういう状態だなとよみとれることは確実にある。もちろん勝手な思い込みだけど。

話すとき、書くとき、それぞれの言葉はそれほどあてにはならないが、凶器のように働くこともあり「言葉」はホント使うのが難しい。環境を作る、絵に描くというのは僕にはなんの苦もなくさくさく出来る事だ。なぜならほとんどの問いには映像が見えるからだ。それを作っていく。直ぐに絵が見えるためにいろんな物を日頃インプットしているといえる。絵が見えるから道具や素材をつかってそこに向かう。
画材や道具と違い「言葉」はホントに難しい。イメージは出来てるのになんてかけばかっこよく、すぱっと過不足なく丁度の文章がかけるのだろう?

そんな難しいフィールドにあるブログである。訓練のために、もっと頻繁に文字とスパーリングすることにした。アウトプットのスパーリングである。言葉は雑であるが、筆と同じ訓練すると旨くなるかもしれない魅力的な機能だ。そんなわけで、さまざまな言葉で実験していこうと思う。

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