ARTという登山


ARTという山が在るなら、判然としないその山を登りつづけ、まあまあのところで景色をながめていた。
しかし、山頂はおよそまだまだ先である。それはわかっていたがこの山は想像以上に一筋縄ではいかないことがはっきりみえた。
価値のない物からはっきりとしたお金という価値に変えてしまうまで、何か明確な根拠とルールが潜んでいる見る人にのみ見える山だ。
それは、上っ面の絵やかっこうで出来た物では無く、心を揺さぶるような広がりを持つ価値なのだ。
そうでなければ、数百数千万のお金は動くわけもない。
人がARTの価値や値段を軽んじてとやかく言う事がある。または意味を理解せづに価値だけにほだされることがある。
文化の歴史は金持ちの歴史でもある。バカが軽んじるほど浅くはない。


展示期間中、山の中腹は土砂降りの嵐にみまわれた。まるで動けぬまま祠で嵐を眺めている。
気分は最低である。俺にしか見えない嵐である。
さまざまなことが複合的に自分の心をおおきくざわつかせる。そして、師の話や日々ながれる現実をきっかけに自分の居場所を理解し、嵐はさっていた。

眼の前は、どうやら以前よりも標高の高いところのようだ。
しかし今ここは、一面霧に包まれているような場所。もんもんとして、みえない。これが上のステージに行くということだなとかんじる。 

実は知らないARTの読み方。


2012年8月末
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