2014年11月アーカイブ

デュシャン

ふと見えた。

「美は演出」

男も女も、森も電車も空も猫も 全部レディーメイドじゃないか。
デュシャンはARTの枠をとてつもなく広げたんだ。

ARTという登山


ARTという山が在るなら、判然としないその山を登りつづけ、まあまあのところで景色をながめていた。
しかし、山頂はおよそまだまだ先である。それはわかっていたがこの山は想像以上に一筋縄ではいかないことがはっきりみえた。
価値のない物からはっきりとしたお金という価値に変えてしまうまで、何か明確な根拠とルールが潜んでいる見る人にのみ見える山だ。
それは、上っ面の絵やかっこうで出来た物では無く、心を揺さぶるような広がりを持つ価値なのだ。
そうでなければ、数百数千万のお金は動くわけもない。
人がARTの価値や値段を軽んじてとやかく言う事がある。または意味を理解せづに価値だけにほだされることがある。
文化の歴史は金持ちの歴史でもある。バカが軽んじるほど浅くはない。


展示期間中、山の中腹は土砂降りの嵐にみまわれた。まるで動けぬまま祠で嵐を眺めている。
気分は最低である。俺にしか見えない嵐である。
さまざまなことが複合的に自分の心をおおきくざわつかせる。そして、師の話や日々ながれる現実をきっかけに自分の居場所を理解し、嵐はさっていた。

眼の前は、どうやら以前よりも標高の高いところのようだ。
しかし今ここは、一面霧に包まれているような場所。もんもんとして、みえない。これが上のステージに行くということだなとかんじる。 

実は知らないARTの読み方。


2012年8月末
やま.JPG

抽象の正体

ある本を読んでいて脳が触発されたようでとつぜん抽象の正体がみえた。
抽象とは心の事をいう。
心とは何なのか? 何処にあるのか? その問いにも答えが出た。心というのは抽象的な物を理解することができる人のみが持っている脳の機能である。

他の生き物は具体的な機能にのみ反応して生活をし子孫を残している。しかし、人は進化の過程で突然つながらないところにまで電気信号シナプスが届くようになり、そこから少しづつ妄想という思い込みが生活の中に介入してくることになった。

人間には妄想が必要か?むしろ不要の厄介者か?
人は心に惑わされるがままに生きてしまうことがある。心の生み出す抽象現実はまことに個人的で正解などない。そのあまりに自由で奔放な心を個々人は制御して人との間にゆるやかなつながりをもって自分の心とひととの歪みを修整しながらおたがいの協調性をもとめいあい合理的な社会を形成している。

この爆発するほどの抽象的な心こそ、ARTの源になっているといえる。
ARTは奔放で自由な心を受け付けた。
そのおもしろさこそARTだ!といわしめている。しかし、この人の自由が逆に協調性を求めた言語になりつつある。
「ARTとは、こういうものをよぶのだ。」とか理解できるカテゴリに当てはめられる物がARTだとよびはじめている。
それならば、具体の塊、真実の塊を人に突きつけてみようではないか?と思う。鉱物という物理化学の結晶、自然と時間の真実の具象を人は理解できるだろうか?
その、あまりにも具体的なものの確信でありながら抽象的なフォルムという両方をもちあわせたこの物に私は神がかった宇宙を感じ、これこそARTの源なのだと感じた。