2013年10月アーカイブ

「曾根崎心中」

「曾根崎心中」むかし心中が流行ったらしい。
この世でむすばれなくてもあの世の魂で自由に結ばれる。そんな浄瑠璃から生まれた若い二人が恋を全うする話に、幻想をえがいた若者が心中にロマンを抱いた。
浄瑠璃「曾根崎心中」は公演を禁止され、心中の葬式は禁止された。
心中の死後に成仏させないためだ。
成仏できないと、魂は自由になれない。
浄土でも結ばれることはないという仕組みだ。

この不思議な思い込み、どこかで覚えがある、そうだ神風特別攻撃隊のようだ。
日本に無茶な戦争をやめさせるために、アメリカは天皇は神ではないと神に公言させた。
神を信じすぎる民の目を覚まさせるために。
そして、その民の習性を僕はどうにかARTで応用しようとしている。


はっきり違う、絵とART

8月の展示会で、ようやくARTというものが何なのか分かってきた。
絵描き、現代美術、おそらく彫刻や写真もそれぞれの在るべき姿、差異が明確に成った。
時期を察するように先人である著名な60代の絵描きと写真家と話をつきあわせることも出来、考察は確信になった。

絵と現代美術は全然違う物だった。
こういう差異は誰も教えてはくれない。
絵は絵の力だけで、その他の絵描きと競争しなければいけないのだ、それは過去の名だたる巨匠やスターと競争することでもある。深い歴史のある絵の世界はものすごいリスクのあるジャンルというわけだ。そして、絵が好きだからこそその競争に打ち勝てる職業でもある。絵そのものに猛烈に引きつけられて四六時中絵のスタイル、表現手段を模索する必要がある。その先に行けるかどうか? いけたかどうかで、絵描きかどうかが決まる。



現代美術はまるでちがう、何をやったっていい。何をやってもだ。
ヨーゼフボイスのように現代社会をみて、何も創らずに考え方だけでサラリーマンを「社会彫刻」というきりくちでみせることも、デュシャンのように「今日から絵は描かない」という何もしない行為をARTとしとしてもいい。この二人のARTは現代美術を大きくかえ、今も直世の中のARTに関わる人に影響を与え続けている。(両方共に故人)
どんな反則技もみとめるから、「世の中の価値観を変えてみなさい。明日の朝から考え方が変わる物事を提示しなさい。」というのがARTである。

つまらなくても、受け取り方、見え方、がかわるものならARTではある。
大なり小なりARTだといえるだろう。
俺が詰まらないと思うのはこの辺りで、興味や趣味が自分にあわなければどんなARTも詰まらない。それと「ねっ、おかしいでしょ」みたいな安い感じのするARTは論外だ。お笑いの足元にも及ばないような陳腐なものは辟易する。心から関わりたくない。その境目と切り捨て方が良くわかったので現代美術がよりすきになった。

本質を見極めるとは、本当に難しい事だがこれほどにおもしろいことはないと思う。
いままで見えている風でまったく気づいていなかったそんな世界が垣間見え始めた。
今までとは全く違う観点から自分を編集し直している。作品が大きく変わると気づくのはおそらく今まで僕を見続けてきた人達だけだろう。とにかく読まなければいけない本、覚えないといけない事がたくさんあるので勉強している。

山や川がある。
遠方から見ている山とは風景の山であり具体的ではない。近づくにつれ識別できる生態系が見えてくるそして自然の成り立ちを知る。遠くから眺めているぶんには美しい山にも生々しい生命の事実がある。当たり前の話だ。
 景色の中にある自然をまずは人は愛でる。普通はあの樫の木がたまらない場所に生えているな、とかいちいち考えない。ただただ綺麗な山だな。と思うのが普通である。 
 ARTはそういう物に近い。眺めて見ている絵(作品)は何も影響を及ぼさないし、興味のない人には何も迫ってはこない。しかし作品の中には様々な物が埋め込まれている。(べきだ。)好きな人はその埋め込まれた物を楽しみ、知れば知るほど本質が見え、迫り来る本質に価値観を変えられたりする。
山が好きな人が、森の木々や生き物のことに興味を持つように。ARTに興味がある人は埋まっている言語に、「なぜだろう?」をもとめて思考しその魅力の訳を感じたり紐解いたりする。
そこには美しさやおもしろさを産んだ理由(生態系)があるはずなのだ。