良い絵 魅力

ピカソとマティスは子供の頃は見た目の差が分からないかった。
一時期のものは色遣いや雰囲気がにているが、よくみれば一目瞭然である。

絵の正解とは何か?
人間の脳は何を持って良い悪いをきめているのか。学問は様々な正解を理論的に導きだし、数字化できるが、芸術の「良し悪し」はそう簡単には答えを出せない。どうこうしたってグレーゾーンは残っている。
 良し悪しは曖昧な物だが、そこを曖昧な物にしていては作り手としていろんな選択肢にYES NO出せない、自分の求める場所を探せない。そういうわけでず====っと考え続けている。子供の頃、目の前の人の絵を描く、景色を描く、じょうずにかければ上手いとほめられる。大人になってもやる続けている人はとてもとても上手くなる。それはアルチザン的な人間の訓練によるものだと思うので器用な人が毎日数時間練習して何年もやり続ければ当然上手くなる。 禁煙みたいなものでやると決めた意志の強さが技術に反映するはず。この辺りはスポーツ選手と同じ。
しかし、芸術がスポーツと大きく違うのは、競争しているのが時間や数字ではなく「良し悪し」の競争をしていると言うこと。 
上手いから「良し」ではない。技術の向上が上位をとれるとはかぎらないのだ。

 海外であまたの中世西洋史にともなう歴史画、宗教画をみてきたが、もうとてつもなく上手い。圧巻である。17世紀のあの人も18世紀のこの人も、みなさん全員手が届かないほど上手いのです。その中で物語のとらえ方、表現の仕方で作家の個性や、本音、意志がみえかくれしてくる。「あー、誰もが言えないこといっちゃったなぁ」「本当は逆なのに視覚を利用すると、黒を白に変えること出来る」的な手法がおおく、揚げ足の取り方、世の中の切り方が鋭角なほど歴史に刻む名前の深さは深いという結果になっている。
その後、絵はこの世の中の切り方、トリッキーなとらえ方、表現の仕方の競争になっていき、技法の見本市になる、やがて絵の時代は終わりARTの時代に成る。


そんな中、20世紀の画家達は19世紀作品を目の前に、権力や反対勢力や常識と戦いながら、独自の世の中の「見え方」を絵で表現した。つまり、正確に書くことでも、権力や物のみかたを描写で言語にしたのではなく、「とらえ方」と「見せ方」で表現し始めた。そこで現在印象派が見出したのは
皆さんご存じのとおり、「へたな絵」である。
良い絵というのは上手い絵では決してない。結論から言うと、おそらく人の脳みそは上手い絵を良い絵とは判断せず、下手な絵の方を良い絵だと判断しているに違いない。そんなバカなであるが芸術に身を置いている人ならわかるとおもう。ブラマンク、クリムト、ドガ、マネ、岸田劉生、青木繁、藤田嗣治、はうまさが引き立っている。
引き替えセザンヌ、モディリアニ、ルソー、ゴッホ、満鉄五郎、熊谷守一、長谷川利行、彼らの絵は絵のうまさなど微塵も関係ないかのような、技術とは別のところで光り輝く魅力を取り込み放っている。クリムトに至っては途中からは露出する肌意外はもはやデザインである。むしろ忠実に物ごとを表現できたところで、林檎は林檎であり、森は森、女は女、椅子は椅子なのである。そうではなく、現実をまっかな嘘でぬりかためてでも、画面の中にかき込んだ物事に魅力を閉じ込める、つまりその作業はいかに崩すか?どう崩したか?が問われる。そうすることで人の感じる「魅力」を言及した。
そして崩し方によって、受け取る側が不思議といわんとしていることが、描かれた物事以上に感覚でうったえかけ、感じ取ることが出来る。只の女の絵が女性の愛情の深さを感じさせたり、林檎が視覚の妙を表現したりし始める。忠実に描くことからはなれていくことは表現にあふれているのである。

どうみても美人でないあの子も、へちゃむくれのあの子も別の魅力が魅力となるように、人がもし美人にしか魅力を感じない脳みそなら美人以外でもさまざまな人に魅力を感じる柔軟な感覚はなんなんだろうか?もしかしたらこの人的機能が下手な絵を愛でるようになったのかもしれない。

そして最初に戻ると、ピカソよりマティスの方が 「良い下手な絵を描く」と僕は思うのだ。