2013年7月アーカイブ

代官山ヒルサイドテラスで個展が決まった。ギャラリーオンザヒルというギャラリーだ。新しいものもだそうとおもう。おたのしみに。
とても短い期間ですが会場にいます。 最寄り駅は代官山(渋谷から一駅東横線)
http://www.galleryonthehill.com/

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良い絵 魅力

ピカソとマティスは子供の頃は見た目の差が分からないかった。
一時期のものは色遣いや雰囲気がにているが、よくみれば一目瞭然である。

絵の正解とは何か?
人間の脳は何を持って良い悪いをきめているのか。学問は様々な正解を理論的に導きだし、数字化できるが、芸術の「良し悪し」はそう簡単には答えを出せない。どうこうしたってグレーゾーンは残っている。
 良し悪しは曖昧な物だが、そこを曖昧な物にしていては作り手としていろんな選択肢にYES NO出せない、自分の求める場所を探せない。そういうわけでず====っと考え続けている。子供の頃、目の前の人の絵を描く、景色を描く、じょうずにかければ上手いとほめられる。大人になってもやる続けている人はとてもとても上手くなる。それはアルチザン的な人間の訓練によるものだと思うので器用な人が毎日数時間練習して何年もやり続ければ当然上手くなる。 禁煙みたいなものでやると決めた意志の強さが技術に反映するはず。この辺りはスポーツ選手と同じ。
しかし、芸術がスポーツと大きく違うのは、競争しているのが時間や数字ではなく「良し悪し」の競争をしていると言うこと。 
上手いから「良し」ではない。技術の向上が上位をとれるとはかぎらないのだ。

 海外であまたの中世西洋史にともなう歴史画、宗教画をみてきたが、もうとてつもなく上手い。圧巻である。17世紀のあの人も18世紀のこの人も、みなさん全員手が届かないほど上手いのです。その中で物語のとらえ方、表現の仕方で作家の個性や、本音、意志がみえかくれしてくる。「あー、誰もが言えないこといっちゃったなぁ」「本当は逆なのに視覚を利用すると、黒を白に変えること出来る」的な手法がおおく、揚げ足の取り方、世の中の切り方が鋭角なほど歴史に刻む名前の深さは深いという結果になっている。
その後、絵はこの世の中の切り方、トリッキーなとらえ方、表現の仕方の競争になっていき、技法の見本市になる、やがて絵の時代は終わりARTの時代に成る。


そんな中、20世紀の画家達は19世紀作品を目の前に、権力や反対勢力や常識と戦いながら、独自の世の中の「見え方」を絵で表現した。つまり、正確に書くことでも、権力や物のみかたを描写で言語にしたのではなく、「とらえ方」と「見せ方」で表現し始めた。そこで現在印象派が見出したのは
皆さんご存じのとおり、「へたな絵」である。
良い絵というのは上手い絵では決してない。結論から言うと、おそらく人の脳みそは上手い絵を良い絵とは判断せず、下手な絵の方を良い絵だと判断しているに違いない。そんなバカなであるが芸術に身を置いている人ならわかるとおもう。ブラマンク、クリムト、ドガ、マネ、岸田劉生、青木繁、藤田嗣治、はうまさが引き立っている。
引き替えセザンヌ、モディリアニ、ルソー、ゴッホ、満鉄五郎、熊谷守一、長谷川利行、彼らの絵は絵のうまさなど微塵も関係ないかのような、技術とは別のところで光り輝く魅力を取り込み放っている。クリムトに至っては途中からは露出する肌意外はもはやデザインである。むしろ忠実に物ごとを表現できたところで、林檎は林檎であり、森は森、女は女、椅子は椅子なのである。そうではなく、現実をまっかな嘘でぬりかためてでも、画面の中にかき込んだ物事に魅力を閉じ込める、つまりその作業はいかに崩すか?どう崩したか?が問われる。そうすることで人の感じる「魅力」を言及した。
そして崩し方によって、受け取る側が不思議といわんとしていることが、描かれた物事以上に感覚でうったえかけ、感じ取ることが出来る。只の女の絵が女性の愛情の深さを感じさせたり、林檎が視覚の妙を表現したりし始める。忠実に描くことからはなれていくことは表現にあふれているのである。

どうみても美人でないあの子も、へちゃむくれのあの子も別の魅力が魅力となるように、人がもし美人にしか魅力を感じない脳みそなら美人以外でもさまざまな人に魅力を感じる柔軟な感覚はなんなんだろうか?もしかしたらこの人的機能が下手な絵を愛でるようになったのかもしれない。

そして最初に戻ると、ピカソよりマティスの方が 「良い下手な絵を描く」と僕は思うのだ。

イラストの向こうがわ


以前漫画についてかいた、漫画特有のコマわりの小ささが意識の中で、ある意味大きな絵をかかせなかった。物理的に使う道具にもよるわけだけれど、物語を語る上でさほど必要ではなく、あるいはそれは必要な制限でもある。連載という十字架を背負う漫画家にして良くも悪くも漫画が技術にしみこむ。
あの世界観と絵がARTの中心をとらえるとしたら、僕にはそれはできない、そしてしない。しかしある意味その絵には敬服せざるを得ない。
自分のやっている現代美術「絵」はまだやる価値があると、胸をなで下ろすという内容だった。

あれからだいぶ月日が流れ、友達のつながりで、前回ブログに引用した大友克洋氏の息子SHOHEI君と一緒に酒を酌み交わす機会を得た。何を隠そう彼も絵を生業にいきている。
実物の絵を見せてもらったがとにかく魅力に溢れている。彼はボールペン1本で絵をかく。人一倍のデッサン力、表現力に長けていて兎に角上手い。上手いだけなら他にもいるのだが、彼の選ぶモチーフは選び抜かれ言語化している。日本独特のモチーフが多く、選ばれたモチーフと技術が相まって独特の世界観を持つ。
 偉大な父の元に生まれ、普通は背負わされない十字架を背負うことになる。しかも、世界的な漫画家の息子が絵を描くとなると注目度やハードルは我々の想像を遙かに超えている。その社会の「業」ににらみをきかせるがごとく彼の絵には気迫がある。ボールペンを道具として選んだ理由は、描き直しが出来ない事、誰もが使っている何でもない道具であることを教えてくれた。後戻りできない「潔さ」が彼をそうさせているのだとおもう。和彫り刺青のモチーフも多いのも、刺青が後戻りが出来ない言語となっているからかもしれない、「気合い」の表現になる。久々に心が震える絵だった。

彼は言った。ARTでなくイラストを描きたい。絵をうるという想像が付かないという。その意味の真意は分からないが、潔く「イラスト」といいきるのだった。きっと僕の知らないなにか素晴らしいものを見てきたのだ。なんなんだろう?イラストの魅力をまだ僕は知り得ていない。しかし、彼の絵に魅力があることは非の打ち所がない。
そういう日常をへて、僕はイラスト漫画へ再び視野を広く深くもてるようになり、見方を変え注目するようになった。


僕は個人てきに大きな作品の魅力に沿ってきたように思う。最低全判ぐらいの大きさの作品が好ましい。物が小さくても小さい感じのしない物づくりにこだわっている。経験上ARTでありたいとおもったし、自分が成りたい、尊敬できるような物づくりはARTの中でありイラストではなかった。文字で表現するのは苦手なので、その線引きはかききれないが。頼まれた絵しか描かないイラストしかこの世に存在しないなら僕はすぐにでも絵を止めるつもりだ。そういうイラストしか今までみてこなかったが、彼の絵を見て気が変わった。

もしかれらが大きなイラストを描き、その創造的世界に磨きをかけ実寸台で、あの技術を描きあげたなら、18世紀の日本絵師に筆適する日本人のみぞ作れる絵を作れるのではないだろうか?それはまさに現存する絵で一番見応えがあるのではないだろうか?どんな崇高な考察を打ち上げた絵をも飲み込む創造力と画力が具体的大スケールでこれからあらわれるとしたらそれはまさにART界の中心になることは間違いないように思われる。これからどうなるか楽しみな反面、自分へのおおきな課題となりほぼ毎日その事柄に関する生き方を考えている。 俺は今の表現とどう向き合うべきか。おおよそ決まってきた。