2013年6月アーカイブ

構図

構図というのは、「いかに見ていられるか?」を考えられるべきだとおもっている。人間は、言葉ではあらわせれない感覚をたくさんもっていると信じずにいられない、あまりにも説明できない言葉にできない、表現に苦しむが、確実に感覚として感じる物事が多いからだ。時々諦めている人が抽象的なジャンルをいいことに、感覚を言葉にしようと努力しない怠け者がいるが、こういう人は年を取ると同じことを何度も言う説教糞ジジイになる危険性が高い。

人間は無意識に観察をしている。構図をみるとは、動物に備わった感覚機能を作為的に構成し利用するとものだとおもっている。ARTの場合その手段が問われることはないがいかに見ていられるものを構成するかが重要。

兎に角「見てられるのか?」「見るに値するのか?」。

自分がフォーカスしてきた物事を表現するために形を生み出しその構図を見出していくのが非常に難しい。見ていられるとはとても重要な事だとおもっている。

頻繁に焚き火をするようになって15年ぐらいたつか・・・常々思っていた事が合わさって確信になった。それは焚き火の炎の燃える様はいつまで見ていてもあきない事への答え。

それは「みてられる構図を連続的に網膜に提供してくるから」。

そんなことは当たり前の事でとっくに誰かが言ったことかもしれないが、今初めて言葉で具体的に理解できたわけだ。そういう物は、いつまでも見てられる。いつまでも見ていられる作品というのが重要だ。

現在脳

先日、13年ほどぶりに、岡山県倉敷にある大原美術館にいった。あの頃は、IDEEでの二回目の展示をおえた23才、納得のいっていない作品を世の中に見せるのは恥ずかしい行為だと大師匠の吉田さんに気づかされ、それまでの不勉強を心底恥、一からやり直す覚悟でA4サイズでも見るに堪える絵をかこうとふるいたち、日々スケッチをかさね技法を模索していた。そして、100年前の絵描きをあらいざらい勉強していた。
そのころは、モディリアーニも佐伯祐三もしらないころで、セザンヌにすら興味がなかった。みたことのない作家の作品があればさがしてどこまでも本物を見に行き、芸術本を読みあさっていたころだった。
 大原美術館は場所には少々そぐわないような信じられない20世紀の大家の作品を所蔵してある。わるくいえば、そんな見せ方したらあかんやろうぐらい隣同士の大家の絵が近い。しかし、本物の20世紀巨匠の作品の身近な展示は生々しく直に迫力を味わえた。その作品の隣接するさまに予備知識があいまって吐き気がしたほどだった。
 
そして今、同じ美術館で同じ作品を見てみるとまるで違う味わいをみせた。
それは、まるで当時の切磋琢磨の様が見えるかのような、作家の考えていた思いや狙いがそれぞれの人間関係をまじえて見える様にかんじたからだ。そして、以前は分からなかった作家の性格や、筆跡や下地の狙い、違い、技術の差がみた。不思議なことに、100年前の作品が初々しく感じ、まるで現代描いた物のように見えたのは自分の年齢が当時の作家の年齢に近づいてきたからなのか何なのか、脳みそは不思議なリアル。ともかく、春の倉敷を散歩するのはなかなか気分が良い。隣接する民芸館に所蔵してある河井寛次郎の作品はまさに自分が求める何かを秘めている。いまままでよりもさらに深く掘り下げることにする。2013年4月25日