2010年12月アーカイブ

職業 芸術家

芸術家という職業は無い。
芸術家をこころざしても会社があり就職できるわけもなく、ただだた自分の芸術を志つづけて生きているだけだからだ。

ほかにこんな職業があるだろうか?
たとえば、大学に通い勉強して優秀な成績を収めれば就職がしやすくなる。俗に言う学歴である。第一希望から順に、希望の職種=人生を自分の能力にあわせて選択し、見合わないと判断された場合は希望を妥協していく。つぎに、スポーツ選手。一生このスポーツに関わって生きていきたい。願わくばプロ選手になり生業として生きていきたい。兎に角自分のいいところを人よりのばし、自分の悪いところもより高いレベルでこなせるように努力する。努力が的を得ていたなら必ず身について試合で勝つことが出来る。勝てなければ体と相談して夢を妥協していく。バンドも似ている。売れなければあきらめ趣味にする。さて、芸術はどうだろうか?ARTとは新しいものの見方であり価値観といっても過言ではないはず、ということはごくごく個人的な価値観である、誰でも共感できる物は全て似たような物がすでに存在するわけだから安易に共感できるわけで、そこら中にすでにあるものは新しいARTとは呼べない。それだけニッチの極みを生業にするかしないか瀬戸際になってくる。
 ARTに関わり初めていきなり世の中が自分のスタイルのブームの絶頂期であれば最初から売れる可能性もあり、一時的に生業と出来る。しかし、世の中にまだ存在しない今現在へんぴと扱われている事に注目している芸術家がかならずいる。この人が職業としての芸術家と世間に認知されることは、アルかもしれないし無いかもしれない・・・。芸術家とはそういうものでふざけた野郎も、食うに困る生活でまじめに取りくんでいる人も許容してしまう。やってる方は仕事にならずに非常にこまるが志でつづける。ARTを買う風習がないので生業になりようもない
 結局の所、スポーツやその他の職業には判断基準が明確にあるがARTには無い。
「何をがんばるのか?」を探すことから始めなければいけない。これが決定的に他の職業と違う。

まともな職業に就かずに、自分だけの世界観を作っている人間が日本には少しだけいます。ARTは生活の中にないのでかかわりづらいですが、遠慮無く作者に声をかけてほしい。それいくら? 

作成の裏側

曇り空の11月2日、飼い犬をのせて兵庫県から石川県に向けて車を走らせる。可能な限り旅先に犬を連れて行く。なぜなら旅が豊になるからだ。目的は以前から切望していた漆塗りの蒔絵作品を制作依頼する事。場所は石川県加賀市山中の「山中漆器」、自分の作品完成イメージの説明と作業工程や素材、特質などの行程把握、こちらで制作した原型をとどけるのが目的である。
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そもそもなぜ漆塗り、蒔絵に惹かれたかというと、自分の作風では表現してこなかった作品のルーツをたどってオリジナリティーを探して行くにつれ、茶碗や漆器、昔ながらの建築物の材料や技術が持つ途方もない興味に注目していると民芸に行き着き、民芸に着目してすぐに、昔から日本の道具や仏壇などに興味を持っていること、カブトムシのつやのある黒や仏様に付されている金色への無垢のあこがれが漆塗り、蒔絵へとつながったからだ。

旅中半からの雨、行動はとりづらくなるが、山の苔や地衣類はどんどん色濃く装いを写し、森の葉は色づきはじめ伝統的民家を思わせる赤瓦に杉張りの外壁はつややかに山中の村景を色どっている。そして目的地である伝統工芸師、清水一人さんの工房に到着、そこはおよそ想像とはかけ離れた全くの普通の住宅であった。この住宅のなかに本当に工房が存在するのか?一抹の不安を抱きながら門をたたく。

工房の在る部屋に移され、その不安は一気に解消された。埃が大敵だという漆塗り工芸の作業場に清水さんは笑顔で工房にわれわれを招き入れた、静かな笑顔で説明が始まる。

漆を乾かすと言うが漆というのは湿度がないと乾かない、と言うよりも湿度がないと固まらないといった方がわかりやすそうだ。そのため、ある程度の湿度を保った湿度と乾かす時間の調整が必要であり、そのための特殊な畳一畳ほどの回転式乾燥木箱があり塗り場の大半を占めている。回転するのは漆をまんべんなくなじませるためだ。

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漆を塗る刷毛は1本10万円もするらしく、驚くことに人毛で出来ていて、現存するこの特殊な刷毛職人は一人、埼玉にお住まいだそうだ。この刷毛だが今まで見たことの無いような仕組みで刷毛という形状を構成している。写真を見るとわかるが、薄い長方形の箱状の中に毛がみっしりと挟みこんであり、毛の長さは職人それぞれの好みによって削って調整する。刷毛であるのに、鉛筆のように削ってつかう。漆についても実は様々な色があるようだが、基本的に鮮やかな色は出にくく、漆のあめった褐色がうっすらとどの色にも残る。磨く、研ぐ、透かす埋める、塗るの行程が多種多様で、どの行程を変えても違う仕上がりになるのが漆で、それはもう素人では何がどうちがうかはっきりとわからない。なんだかわからないがコレとコレは違う作りだなとしか感じれない。その中に、作業の妙技が隠されており、一口に漆塗りといっても。それぞれの作品で全く作る順序や段取り、時間のかかり方が違うのにおどろかされた。わかるひとにしかわからない。また、道具が独自で考案した物が多くあるのがおもしろい。

歯科で神経を抜く針をつかった漆についた塵取り、代々受け継いでいる、回転式乾燥箱、継いだ筆、のばしたり、捕ったり練ったりの篦、これらはどれも手作りのもだった。

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蒔絵はというと、簡単に説明すると、漆で描いた模様に,金粉を蒔いて金を貼り付けて金の絵模様とするわけだが、金にも種類があり、蒔くまでの行程があり、蒔いた金属や、貝、漆ぬりかた下ごしらえ、磨き方で浮き出てくる模様が違い、手法が書ききれないほど在る。ここで注目すべきは蒔絵師の道具と調和した技である。職人の道具をさわらせて頂いたのだが、漆は「液体であって液体にあらず」かなりの粘度をもった塗料である。粘度があるからこそ、実に細かい作業が出来るという事でもあるが、粘度があると言うことはなかなか筆を伝って色が降りてこないと言うことなので、非常にゆっくりと描くことになる。しかも、描くときに器の方も巧みに動かしながら線を「曳く」という描き方をするので、まったく他の物に絵を描く技術と違う。

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職人さんにいろいろと話を聞き、奥の深さを聞けば聞くほど、自分がやろうとしていることがやんちゃな事であることに実感が沸いてくる。しかし、ここで空気に飲まれて立ち位置を変えては駄目である。私は作家であり、此所だと思う作品の着地点へむかってひたすら向かっていくのが正しい。いくら技術や技、特徴を最大限にいかせなくても、自分が出したい効果を狙い選ぶことが重要だ。ややもすると、気迫に押されて、蒔絵職人のような作品を作りたくなる。自分を乱して色気を出せば、とてもじゃないが職人の足下にもおよばぬ物しかできない。0から自分の選択した素材を作品の中でぶつけ、工芸品では出ない化学反応をおこすのがアーティストである。そのために漆も、蒔絵もえらび清水さんも協力してくれているというものだ。

漆塗り、蒔絵、思った通り伝統工芸だけに知識が深く幾度となく唸らされる。
説明をひとしきり聞いてから、自分の持ち込んだ石膏の原型の削りがあまいのが気になって
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いた。本当なら夕食・温泉といきたいところだが、素人ながら納得いくまで漆を綺麗に塗りたい情熱と往生際の悪さで手直しすることにした。もちろんその手直しの無謀な挑戦にはきづいている。場所と道具、時間に限界があるからだ。しかし最悪の事態を想定して最低限の道具は持ち込んでいた、夕飯後洗面所でひたすら形を整える作業に徹する。洗面所がみるみる粉塵につつまれ息苦しい。機械では出せない優しい自然の生き物のような曲線を左右対称に成るか成らぬかの感じを作り出す。原型が柔らかい白色なうえに若干起毛しているので非常に凹凸が見にくい延いては眺め、手で凹凸を探り、ミラーに映し整えていく。美しい形が徐々に見え始めてくる。これを明日、また清水さんの工房へ持ち込むわけだが、さて一月後の漆のあがりはどのようになるものか?期待と不安でいっぱいである。


マグマの噴火まで

 10才年下の親戚がいる。もう立派な大人の顔立ちをしているが、私が高校一年の時に小学一年という差がある。がもうすでにこのあたりの年代の青年達が誰に管理されることもなく世の中を動き回っていることになる。私が通学時にヤングマガジンを読んでいたときにポケモンで「きゃっきゃ」いっていた世代が大人に成っていると言うことだ。
 10年前、インターネットはおろか、PCの存在は普及にはほど遠い状態だったが、このあたりから急激にハイテク化が進み始めたように感じる。切符はなくなり、携帯電話がみるみる進化し、全てがアナログからデジタルへ、流してもない便所まで流れるようになった。
 本の種類が爆発的に増え、全てのジャンルにおいて広く深く本が出版されつくす、ビジネス書をみていると非常に精度の高いマーケティング戦略が生まれている。方程式がある感じだ。つまり合理的なパターンが必ずあり、それに準ずる方法が一番物事を正解に導く近道になっている。大会社の社員でなくても、そういう類のものが2000円ほどで手に入りだれでも普通の生活のなかでいくらでも一流の教育が活かせる時代になっている。  
 町の見えている部分ではビルが増えり、ハイテク化された物ばかりが目につくが、日常の目線だけでは感じ無い【知識の進化】【考え方の進化】【世代の進化】が水面下でマグマのように成長している感じをうける。マスコミュニケーションの全てがデジタル化し無料で無制限に手に入る、個人の表現機会がプラットホーム化してきたいま。マスメディアが報じる事以外の、本当の見えない流れが力を持ちはじめている。10年前世界を動かしてきた企業と、現在世界を動かそうとしている企業を比べると企業の種類や内容に、いかに世の中がかわっていいこうとしているかがみてとれる。
 いたずらに想像をかき乱すわけではないがSF的楽しみが今まさに在る。想像できている現実はごくわずか、今起きていること、今から起こること、起こそうとしていることは歴史的な事かもしれないという忘れがちな当たり前を意識して、特にこの3-5年の動きを大いに注目しておきたい。今という瞬間、未来におこる歴史を体感できるチャンス。

 夏、通勤ラッシュでもないのに電車のエアコンが効き過ぎだと、車中震えながらJRの「○○へいこう」ポスターをみながら揺れている。美しい夏山をバックに女性が2人山を見ている。すると頭の中で音が聞こえてきた。遠く森から届くアブラゼミの声、山と入道雲をみながら背後に観光客の声がした。 
 人は本当に旅をしたのか?旅、旅行、観光、このあたりの言語のつかいかたがゆるい気がする。見にきた自然と、足を踏み入れた自然との差に考えが及んだ。
 例えば「四万十川50キロ、カヌー川下り。」なんだかすごい体験がまっていそうである。これらは現代において観光ほどの能力で達成できる。これが20年前だと、まだ切り開かれていない遊びに、5万分の1の地形図を行程分買い地形を読むことから始まる。ダムの場所、堰の数、瀬の場所、村の場所、カヌーを運ぶ手段、川までの移動手段、自転車で行くのか?車で行くのか?電車で行くのか?などなど、それだけでもう全然違う。数ヶ月前から旅への準備ははじまっている。その分旅が終わった後の達成感と経験値は何にも変えがたい。しかし、現在においては、温泉旅行のついでに四万十川でも下っていこうか?も可能だ。どちらでも選べるのだ。これは今では旅に出る選択肢といえる。旅で人は何を見たか?とくに眺める旅と、両足どっぷりつかる旅とでは、とてつもない差がある。それは旅から帰ってきた人の話でわかる。最近旅から帰ってきたひとの話がつまらない。「○○いったそうだね?よかった」「よかったよ」こりゃなんのやりとりなんだ?とおもわされる会話が兎に角つまらない。君は一体全体どんな旅をしてきたのだ?どんなことに興味を持ってどこに両足をつっこんできたのだ?現地でしか味わえないそれを聞きたいのだ。ネットでみたらわかる程度の話なら酒の肴にはならないのだ。

 昔から思う。人の話でおもしろいのは、してきたことの話であり、やろうとしていることの話や、誰もが出来る事の話ではない。年を重ねた大人の話で一番おもしろいのは、やってきたことの経験談、それが現実離れしていればいるほど想像をかき立てられおもしろい。年寄りの説教ほど聞いてられない話はない。やってきた人生ドラマを聞いて想像しわくわくしたいのである。

 日常からの解放、日常でたまったエネルギーをはき出しにいく。日常生活の中で人は澱のようなものをため込んでいる。この澱は、さまざまな形で心や脳に影響しているとおもう。なにも学術的な根拠があるわけではにがそういうリアリティーが自分にはある。そこでひとはスポーツをしたり、ライブを見たり、歌舞伎を見たり、日々使う脳みそを休め、全く別の事を考えたり、与えられたりすることでこの日々の澱を解放させ、発散させることができる。
 旅もその延長線上である。日常からの逃避、もちろん行き先は非現実とエネルギーの解放できるところ。
旅に出ると言っても、温泉につかって観光だけをするというのはあまりしないがしかし、かくいう私も、年に一度「春男路」と題して男しか参加させない旅路を企画している。これは只の観光が行程ではあるが、目的は別にある。ルールは男のみ参加可能という事と、合理的さを多少捨てる事。わざとぼろい車ですし詰めで出かけたり、犬を連れていたっりする。心も体も裸になりたいときになれる。言葉に気を遣うこともない。すると、ハプニングも起こりやすい。女がいるとどうしてもまともであろうとする男の心理を解放させるという精神的解放の旅であり、年に一度の珍事件続出の旅でもある。

想像と現実

幸か不幸か人は明らかでない物事に想像、妄想をふくらませる。

未知の場所、よく見えない物・闇・陰・光・抜け殻の部屋・無言・立ち尽くす人、はっきりしない事への想像には魅力があり恐怖でもある。


神に形は無い。形が無くてはやりづらいので神を形づくる。形作るには裏付けが必要なのでまず話をつくる。この話が日本では古事記であり、西洋の聖書だろう。聖書でマリアは処女のままイエスを授かり、日本には神様の神様がたくさんいて最初の神様の雌と雄が矛先で水をかき混ぜてしたたったしずくが落ちて、最初に淡路島が出来たそうだ。

 宇宙人がは虫類のような容姿をしているのは、氷河期がなければは虫類である恐竜時代がつづき、は虫類が人のような進化を遂げたであろう、それが無数にある宇宙銀河のひとつに存在していたらという妄想が集約している。

 人は人を好きになる。あの人は、今自分の事を思い生活を送っているのだろうか?きっとそうに違いない。

そう思うと幸せに思いを馳せる。逆であれば、不幸を想像して眠るに眠れない。

 漫画や小説が映画やアニメ化すると詰まらなく成りがちなのは、「間」として空いていた作品の隙間に他人のリアルで埋められてしまうため不快感を感じる。

 夜の闇、暗くてよく見えないことで脳にあるホラー経験が妄想を肥大させ有りもしない現実に人を臆病にする。

 

光と闇、自分の脳裏に映し出されるストーリーがわれわれの世界には反映され、アイデアになっている。

現実がまやかしなのか、想像は架空のままなのか?自分の立ち位置が試され、ほんのわずかな手がかりをもとに現実をたぐり寄せては人は想像に遊ぶ。


美意識

飛行機から日本を見下ろすと、日本列島が山だらけな事がよくわかる。そして、地図で見た形が立体となり、自分が車で走った路と時間を眼下に広がる地形に照らし合わせて日本列島のサイズを感じることがでる。山々からしみ出した水は裾野に広がった平野部を流れ、ながい道のりを経て海まで流れ出ている。平野部には家がびっしりと建ち並び、田畑は国に管理され、海辺は埋め立てられ工場が建ちならぶ。

「日本人の住むところはもう空に伸びるしかないのか?」と考えると少子化日本も列島の適正人口に向かおうとしているのは間違いない。


ヨーロッパの街は実に優雅で華やかな印象がある。

ある日ふと思いが生じた。「歴史のある街のたたずまい」という言葉で焦点がぼけていたが、なぜヨーロッパの街並みから良き街のたたずまいを感じるのか?それは建物一つ一つの材料が剥き出しの天然素材(木・石)を一つ一つ手仕事で作りあげた過去があるからではないか?

それらが集合して人の営みを包んでいるから美しい形(街)が生まれているんだと。自然素材をイチから創り出す時間のかかる努力こそが「歴史のある街のたたずまい」を産んだ理由だろう。それが今も受け継がれている。


 これらの条件を満たしてる場所は国内にもある。日本は木材建築の文化である。木材建築が厳しい日本の自然を生き抜くには建て替えが必要である。(ヨーロッパの自然は日本と比べものにならぬほど穏やかである。)人件費が向上してきた日本で、手仕事がへるのは悲しい事実であるが、歴史的風情、たたずまいを受け継ぎ続けるにはそれらをやめないほかない。受け継がれることで街は健全としていられる。日本を旅していて非常に少なくなったこれら貴重な町に降り立つと心おどり癒されるのである。


しかし、現在にはびこるのは、整備という名の破壊である。

神さまのいる神社でさえ・・・

昨今、宮司は宮作りの知識をわすれたのか、木材を止め、手書きを止め、絵馬を幼児用の稚拙なアニメにし、コンクリートを多用した作りのものをよく見受ける。まるで神社に神がいる気配を感じない。「歴史のあるたたずまい」とは無言で語るものである。「神の気配」は無言で感じる物。

必要性を感じない冷めた街と、神の気配を感じない神社、両方に用はない。


1000兆円の借金がこの国にはあるらしい。評論家は口々に国家破産を叫んでいる。税金が足りないので子供を増やそうとしている。あきれる。

借金とは使った金のこと、いったい全体何に使ったんだ。50兆円有ればこれら日本の美意識の継続にどれだけのことができたか無念でならない。