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私はアートに目覚めながらも、しっかりと商売を続けてきた。最初の美術展示でこんな事だけやっていては発表の場の少ない日本であっとうまに弱者となり存在すら出来ないと感じたからだ。

そして、その両方に携わり続けながらこう思う。

アートとは消費社会の中で最も高単価のコピーできない商品でありその反対側に大量生産の100円ライターのような商品があるととらえている。反対が黒反対が白とするならば、全域にわたりグレーゾーンが最も多い。デザインもこの中に存在している。デザインがARTの価値を抜くこともあり価値の転換は大いにおこっている(デュシャンもそうしてARTの揚げ足を取った)。

私にとってARTとは"新しい価値を生み世界を押し広げる物"である。そこで私はグレーゾーンのもっともグレーな物事に目を付けてそれを「アートブランド」と名付けはっきりと価値があるという行為に望んでいる。アートであり、そして商品の価値を上げてビジネスをするブランドでもある。新たな表現である作品に邁進しながら影響を受けた営みを織り交ぜARTとして表現していくこれがアートブランドCALMAである。 それ故CALMAの展示はどこかの部族の生活を垣間見たような物にみえる。

それが新たな表現となりえるだろう。


これは現代でわたしが興味を馳せて物作りをする全てを織り込んだ現代に生きた芸術。

芸術は一部の金持ちや、芸術だけに興味がある人の物であってはいけない。

もっと、ワサワサと現代人類に影響を与える生きたARTとして社会にのさばるぐらいが私の理想である。

新潟県岩室温泉 だいろの湯

やっぱ温泉は硫黄温泉である。
ゆで卵の臭いに例えられるが、カチ湯での湯で卵はむしろ嫌いであるが硫黄温泉の臭いをかぐと食欲すら湧いてくる。
おいしいとは違う、なんともいえないいやされるかおりである。

僕ははっきり言って泉質などわからない。
わかるといいはる人の90%はインチキだとおもっている。
泉質表記なしでユニットバスに温泉水入れて泉質ソムリエでも出来れば信じるが、あっちの湯があーだこーだいっていることに僕はまるでついていけないし信じてない。
むしろ、色、臭い、こてこてについた湯口の結晶をみて「あ〜 ええ湯だな〜。」とおもうのである。

新潟市三条市で展示会をしているがトレーラー生活で風呂がない。
なんどか弥彦にある岩室温泉に入湯したがここの温泉は硫黄温泉で冷え始めた秋の空気にけむりたつその露天風呂、かおる硫黄がこころから癒されるのである。

岩室温泉 だいろの湯

【CALMA by RYO OKAMOTO トークイベント】

2017年岡本亮が立ち上げたアートブランド『CALMA』が起こし続ける化学反応の先にあるアートの進化とは何なのか。また、今回、岡本氏が展示場所にと選んだ"公共施設"、そして"三条スパイス研究所"のコンセプトに共鳴したというワードや思いを紐解きながらツバメコーヒーの田中 辰幸氏と一緒にトークイベントを開催します。
〈日  時〉10月6日(土)17:00〜18:30
〈会  場〉三条スパイス研究所
〈参 加 費〉無 料
〈定  員〉30名
〈申し込み〉事前申し込み無し、当日参加可能
〈ゲスト〉岡本 亮(CALMA)×田中 辰幸(ツバメコーヒー )
司会/山倉 あゆみ(三条スパイス研究所)
〈お問い合わせ〉三条スパイス研究所 0256-47-0086

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スパイス研究所サイトリンク >>    http://spicelabo.net/news/2117/
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online car magazine "DRIVETURU"神保君がカルマの記事を書いてくれた。渋る彼を壮大な山に連れ出したがアレでチ○ポたた無い男と気があうわけない。バイクはARTじゃないとか言う次元とか、オフロードバイクがどうとか言う次元をこの行為は越えている。
自由に空飛べる道具をみておもしろくないって行ってるようなもんだからね。初めて人が火をおこしたり空を飛んだりしてるのと同じだと考えてるから、やったことない人は単純に大事な経験をおざなりにしてるとおもう。
外からの目の文章はおもしろいですよ。

写真は嶌原佑矢(https://yuyashimahara.com/profile)いつも思い通以上の写真をとってくれるので来てくれると気分すら良い。どんどん展示をしてたくさんのひとに


http://drivethru.jp/report/summer-memory


アートを"狩る"男
BOBLへの道のチームメンバー、岡本亮は類い稀な存在である。彼は兵庫をベースに活動しているが、都内はもとより日本各地で会う機会が極めて高い。単純にフットワークが軽いといえばそれまでだが、どんな時でも本能の赴くままに行動できる彼の姿勢は表現力と直結している。そんな岡本が昨年、立ち上げたアートブランド『CALMA』は、岡本の行動をより広義な意味でブーストさせるアートプロジェクトといえよう。主なフィールドは山、川、海と多岐にわたり、時にオフロードバイクにまたがりエンデューロレースに熱中する日もあれば、時としてヤスを片手に川へ潜って魚を突いてみたりとかなり狩猟的。

ここで紹介する数枚の画像は、今年7月初旬に行われた『Dawn of a new tribe』と題して行われた東京エキシビジョンの模様だ。この展示を皮切りに、日本各地でその土地土地にちなんだ展示を計画中。
・・・WEBに続く→http://drivethru.jp/report/summer-memory


ART

絵は語りすぎるとつまらない

漫画は語りすぎて、それ以上にならない


壮大な地形が好きだ

物事の見方を発明し 具現化する事

~な理由です~に関心が出てきた


見えるものばかりが全ての世の中になってきた。

人間の一番の面白みは見えない思い込みにあるのに。


信じるリアリティ  現代人の信じるリアリティちは対人 対物でしかない。こうして世界は狭くなってゆく。


糞アナログで未来を感じる作品作り

人口では無い、生き物を戴く命の尊さ 生き物  料理....


ビジュアルの強度

要らないから 安い

薬と金しか要らない時代

信じる信仰対象を信じ 師への恐れ敬いなどが相まって形に緊張感が出る。



骨董の信仰対象は観させる強度がある。

作り手が神を信じ敬い形を作り時代を経たからだ

石を選ぶ時にも美の強度で選んでいる。

時代の強度は充分であるが造形美として人を惹きつける強度があるかどうか?が重要



僕の好きなアートは得ることによって価値観や好みまで変わってしまうような影響力を秘めたアートである。美しかったり面白かったりするのは当然ではあるが二の次である。


形だけを真似た現代の信仰対象は建具のような美しさしかない。対象を信仰していないからだ。しかし、一流の建具屋のものはいまだに美しい。建築美を信じそれに徹しているからだろうか?


新しく作るものならば建築物、建具の方が人を惹きつける強度を作ることができる。


it's all in your mind.

daydream about the future 

it's just your imagination 



自然を見たいようにデザインするのではなく自然を見たときとおんなじ感覚を作品から与えるようなものを作る


壮大で膨大な広がり質量

天候のドラマチックさ

時間の無限

美しい無限の色と光



神社や寺は 神を信じ崇め願う場所ではなく そういう時代があった博物館的観光施設になった


僕が信じているものは もっとラフで繊細な時を経た地球と言う物質の奇跡

今信じるべきはこの何でもない日常にある奇跡である。


神を崇めるに値する 建築物、神社、寺、教会は過去のものになり、

我々はこの自然のとてつもない時間を、何に入れ奉る事が妥当であるのか?

今回は神を信じた時代の神の家 厨子の祠を借りる事にした。


信じた物、事にこそ 信じた人の力や能力は反映される。 信じる力とは ありもしない事実を創り上げる事ができるのだ。

ーーー

人は何を信じているかである


自然科学は優しく残酷だ

自分を踏まえた人間は曖昧でゆるく弱い

ただそこにあるだけ


一番人の及ばない力 それは時間

ARTの手始め

生きて居る時間の経過の中で、様々な生活情報にまみれて埋もれた美意識・潜在意識を掘り出す作業。


若いうちに意識の中に存在するセンスが素直に出せる環境で形にでき、尚かつ社会の流れとマッチした人は幸運である。

そうでない人間が大半である社会で、確実に存在する自分の美意識を紛れた情報に惑わされずあきらめず整理し、純粋でクリアな自分だけの美意識を掘り当てることがアーティストのもっとも重要な仕事である。

お金になる仕事よりも

最も美しく、尊い行為。この行為を追い求めるには自分を信じる力が必要で、権力や周りやお金に惑わされない探求心への強い愛が必要だ。


登山のようにどんどん世界が澄み渡って見えてくる登山の途中

僕はそろそろ掘り当てたきがした。

だいぶ上まで登って来れた。

まだこの先があるはずだからどんどんのぼっていく。


まだみぬART行為をもとめて。



正論という退屈

泥水であそんだ新鮮なおもい
思い存分怪我をして衣服を汚した爽快感

知識で考え選ぶとまともな答えが手に入るが、爽快感や新鮮な思いは手に入るだろうか?合理的とは大人の武器である。まじめに考えれば出る答え。

解っているからやらないのでも、わからないからやるのでもなく体験したいからやるのだ。
意味などあってもなくてもどっちでもいい。
俺に関係があるのは事実を体感して脳みそが感動で痺れること。

年齢を重ねると、人も犬もやることがへる。無駄な動きをしたがらない。
無駄のない道がみえるから、無駄を省いてスムーズに生きようとしてしまう。
道がある、道が解るものは新しく得るものが少ない。
人生はオフロードであるべきだ。




ユートピア


まともなことと言うのはつまらない。
くだらないことは わらえる。
正直者はつまらない。
たしょうの嘘があるほうが わらえる。

どんなにつっこみがうまくても
愛がだせていない突っ込みは笑えない。

何故、人は似ている物をみつけたがり、ものまねをおもしろがるのだろう。
まねされた人にまねした人がにていると、なぜうれしくなりおもしろいのだろう。

答えは分からない方がおもしろい。
答えが分かると、なーんだそんなことかと飽きてくる。

見つけたことをえらそうにこたえる人や、そうする時の自分が醜くい。
とんでもない事に気づいても、正しい事なんて六すっぽやくにたたないし、おかしくない。

えらそうに人に言えることと言えば
ワープしたり
過去や未来に移動できるぐらいの理論が証明できたときぐらい。
それ以外はさほどたいしたことではない。

とりとめもない抽象的な答えを探し
これだと分かる具象にすることをやめられないでいる。

ユーモアで病気は治せないが、正論よりも、ユーモアの方が大切だろ。


ユートピア



デュシャン

ふと見えた。

「美は演出」

男も女も、森も電車も空も猫も 全部レディーメイドじゃないか。
デュシャンはARTの枠をとてつもなく広げたんだ。

ARTという登山


ARTという山が在るなら、判然としないその山を登りつづけ、まあまあのところで景色をながめていた。
しかし、山頂はおよそまだまだ先である。それはわかっていたがこの山は想像以上に一筋縄ではいかないことがはっきりみえた。
価値のない物からはっきりとしたお金という価値に変えてしまうまで、何か明確な根拠とルールが潜んでいる見る人にのみ見える山だ。
それは、上っ面の絵やかっこうで出来た物では無く、心を揺さぶるような広がりを持つ価値なのだ。
そうでなければ、数百数千万のお金は動くわけもない。
人がARTの価値や値段を軽んじてとやかく言う事がある。または意味を理解せづに価値だけにほだされることがある。
文化の歴史は金持ちの歴史でもある。バカが軽んじるほど浅くはない。


展示期間中、山の中腹は土砂降りの嵐にみまわれた。まるで動けぬまま祠で嵐を眺めている。
気分は最低である。俺にしか見えない嵐である。
さまざまなことが複合的に自分の心をおおきくざわつかせる。そして、師の話や日々ながれる現実をきっかけに自分の居場所を理解し、嵐はさっていた。

眼の前は、どうやら以前よりも標高の高いところのようだ。
しかし今ここは、一面霧に包まれているような場所。もんもんとして、みえない。これが上のステージに行くということだなとかんじる。 

実は知らないARTの読み方。


2012年8月末
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