ART

絵は語りすぎるとつまらない

漫画は語りすぎて、それ以上にならない


壮大な地形が好きだ

物事の見方を発明し 具現化する事

~な理由です~に関心が出てきた


見えるものばかりが全ての世の中になってきた。

人間の一番の面白みは見えない思い込みにあるのに。


信じるリアリティ  現代人の信じるリアリティちは対人 対物でしかない。こうして世界は狭くなってゆく。


糞アナログで未来を感じる作品作り

人口では無い、生き物を戴く命の尊さ 生き物  料理....


ビジュアルの強度

要らないから 安い

薬と金しか要らない時代

信じる信仰対象を信じ 師への恐れ敬いなどが相まって形に緊張感が出る。



骨董の信仰対象は観させる強度がある。

作り手が神を信じ敬い形を作り時代を経たからだ

石を選ぶ時にも美の強度で選んでいる。

時代の強度は充分であるが造形美として人を惹きつける強度があるかどうか?が重要



僕の好きなアートは得ることによって価値観や好みまで変わってしまうような影響力を秘めたアートである。美しかったり面白かったりするのは当然ではあるが二の次である。


形だけを真似た現代の信仰対象は建具のような美しさしかない。対象を信仰していないからだ。しかし、一流の建具屋のものはいまだに美しい。建築美を信じそれに徹しているからだろうか?


新しく作るものならば建築物、建具の方が人を惹きつける強度を作ることができる。


it's all in your mind.

daydream about the future 

it's just your imagination 



自然を見たいようにデザインするのではなく自然を見たときとおんなじ感覚を作品から与えるようなものを作る


壮大で膨大な広がり質量

天候のドラマチックさ

時間の無限

美しい無限の色と光



神社や寺は 神を信じ崇め願う場所ではなく そういう時代があった博物館的観光施設になった


僕が信じているものは もっとラフで繊細な時を経た地球と言う物質の奇跡

今信じるべきはこの何でもない日常にある奇跡である。


神を崇めるに値する 建築物、神社、寺、教会は過去のものになり、

我々はこの自然のとてつもない時間を、何に入れ奉る事が妥当であるのか?

今回は神を信じた時代の神の家 厨子の祠を借りる事にした。


信じた物、事にこそ 信じた人の力や能力は反映される。 信じる力とは ありもしない事実を創り上げる事ができるのだ。

ーーー

人は何を信じているかである


自然科学は優しく残酷だ

自分を踏まえた人間は曖昧でゆるく弱い

ただそこにあるだけ


一番人の及ばない力 それは時間

ARTの手始め

生きて居る時間の経過の中で、様々な生活情報にまみれて埋もれた美意識・潜在意識を掘り出す作業。


若いうちに意識の中に存在するセンスが素直に出せる環境で形にでき、尚かつ社会の流れとマッチした人は幸運である。

そうでない人間が大半である社会で、確実に存在する自分の美意識を紛れた情報に惑わされずあきらめず整理し、純粋でクリアな自分だけの美意識を掘り当てることがアーティストのもっとも重要な仕事である。

お金になる仕事よりも

最も美しく、尊い行為。この行為を追い求めるには自分を信じる力が必要で、権力や周りやお金に惑わされない探求心への強い愛が必要だ。


登山のようにどんどん世界が澄み渡って見えてくる登山の途中

僕はそろそろ掘り当てたきがした。

だいぶ上まで登って来れた。

まだこの先があるはずだからどんどんのぼっていく。


まだみぬART行為をもとめて。



正論という退屈

泥水であそんだ新鮮なおもい
思い存分怪我をして衣服を汚した爽快感

知識で考え選ぶとまともな答えが手に入るが、爽快感や新鮮な思いは手に入るだろうか?合理的とは大人の武器である。まじめに考えれば出る答え。

解っているからやらないのでも、わからないからやるのでもなく体験したいからやるのだ。
意味などあってもなくてもどっちでもいい。
俺に関係があるのは事実を体感して脳みそが感動で痺れること。

年齢を重ねると、人も犬もやることがへる。無駄な動きをしたがらない。
無駄のない道がみえるから、無駄を省いてスムーズに生きようとしてしまう。
道がある、道が解るものは新しく得るものが少ない。
人生はオフロードであるべきだ。




ユートピア


まともなことと言うのはつまらない。
くだらないことは わらえる。
正直者はつまらない。
たしょうの嘘があるほうが わらえる。

どんなにつっこみがうまくても
愛がだせていない突っ込みは笑えない。

何故、人は似ている物をみつけたがり、ものまねをおもしろがるのだろう。
まねされた人にまねした人がにていると、なぜうれしくなりおもしろいのだろう。

答えは分からない方がおもしろい。
答えが分かると、なーんだそんなことかと飽きてくる。

見つけたことをえらそうにこたえる人や、そうする時の自分が醜くい。
とんでもない事に気づいても、正しい事なんて六すっぽやくにたたないし、おかしくない。

えらそうに人に言えることと言えば
ワープしたり
過去や未来に移動できるぐらいの理論が証明できたときぐらい。
それ以外はさほどたいしたことではない。

とりとめもない抽象的な答えを探し
これだと分かる具象にすることをやめられないでいる。

ユーモアで病気は治せないが、正論よりも、ユーモアの方が大切だろ。


ユートピア



デュシャン

ふと見えた。

「美は演出」

男も女も、森も電車も空も猫も 全部レディーメイドじゃないか。
デュシャンはARTの枠をとてつもなく広げたんだ。

ARTという登山


ARTという山が在るなら、判然としないその山を登りつづけ、まあまあのところで景色をながめていた。
しかし、山頂はおよそまだまだ先である。それはわかっていたがこの山は想像以上に一筋縄ではいかないことがはっきりみえた。
価値のない物からはっきりとしたお金という価値に変えてしまうまで、何か明確な根拠とルールが潜んでいる見る人にのみ見える山だ。
それは、上っ面の絵やかっこうで出来た物では無く、心を揺さぶるような広がりを持つ価値なのだ。
そうでなければ、数百数千万のお金は動くわけもない。
人がARTの価値や値段を軽んじてとやかく言う事がある。または意味を理解せづに価値だけにほだされることがある。
文化の歴史は金持ちの歴史でもある。バカが軽んじるほど浅くはない。


展示期間中、山の中腹は土砂降りの嵐にみまわれた。まるで動けぬまま祠で嵐を眺めている。
気分は最低である。俺にしか見えない嵐である。
さまざまなことが複合的に自分の心をおおきくざわつかせる。そして、師の話や日々ながれる現実をきっかけに自分の居場所を理解し、嵐はさっていた。

眼の前は、どうやら以前よりも標高の高いところのようだ。
しかし今ここは、一面霧に包まれているような場所。もんもんとして、みえない。これが上のステージに行くということだなとかんじる。 

実は知らないARTの読み方。


2012年8月末
やま.JPG

抽象の正体

ある本を読んでいて脳が触発されたようでとつぜん抽象の正体がみえた。
抽象とは心の事をいう。
心とは何なのか? 何処にあるのか? その問いにも答えが出た。心というのは抽象的な物を理解することができる人のみが持っている脳の機能である。

他の生き物は具体的な機能にのみ反応して生活をし子孫を残している。しかし、人は進化の過程で突然つながらないところにまで電気信号シナプスが届くようになり、そこから少しづつ妄想という思い込みが生活の中に介入してくることになった。

人間には妄想が必要か?むしろ不要の厄介者か?
人は心に惑わされるがままに生きてしまうことがある。心の生み出す抽象現実はまことに個人的で正解などない。そのあまりに自由で奔放な心を個々人は制御して人との間にゆるやかなつながりをもって自分の心とひととの歪みを修整しながらおたがいの協調性をもとめいあい合理的な社会を形成している。

この爆発するほどの抽象的な心こそ、ARTの源になっているといえる。
ARTは奔放で自由な心を受け付けた。
そのおもしろさこそARTだ!といわしめている。しかし、この人の自由が逆に協調性を求めた言語になりつつある。
「ARTとは、こういうものをよぶのだ。」とか理解できるカテゴリに当てはめられる物がARTだとよびはじめている。
それならば、具体の塊、真実の塊を人に突きつけてみようではないか?と思う。鉱物という物理化学の結晶、自然と時間の真実の具象を人は理解できるだろうか?
その、あまりにも具体的なものの確信でありながら抽象的なフォルムという両方をもちあわせたこの物に私は神がかった宇宙を感じ、これこそARTの源なのだと感じた。

イラストと絵画

半年ほど前、イラストと絵の明確な違いをおしえてもらい腑に落ちた。
イラストとは複数印刷されることが目的で描かれた物のことをいい、絵画とは何にも印刷される目的を持たずに制作された一点物の作品のことをいうそうです。高尚な絵描きが描いたイラストも存在すれば、何処の馬の骨かしらんアーティストの絵画もあるということです。「なんだかイラストっぽいからイラストじゃないの?」という判然としない気しょく悪い会話はこれでこの世から消えるわけです。印刷目的で書いた物でないのに、後で誰かがTシャツや印刷物にしたらそれは、「絵を印刷に使用」したということになります。印刷したらイラストに変わるわけではない。これで今のところ納得しています。ミキさんありがとう。
最近色々ある。なんたらビエンナーレとか、なんたらARTウェイークとか、そんでみていると何がおもしろいんだか、おまえさん誰で何が言いたいんだか?みたいなそういうお祭りARTをとりあえずやりたがる風潮がつづいている。これね、誰かが仕掛けてるんだからだからなんなのか?何が目的でどれだけ目的達成したか結果教えて欲しい物です。信念もってやってる人達はいいですよ。その信念に基づいて作品が集まるんだから見応えもあるでしょう。しかし、一時の安いお祭りがおおすぎて、もう飽和して天才もアホも入り乱れています。決してね、詰まらないARTやってる側には問題ない、信じてやってるんだからそれを認めてくれてひとがいたらそりゃやりたいでしょう。
でもね、チープな物が氾濫してろくな事ないよ。人間に良い影響がARTからあるって?そんなもんあるかい! それは考え抜いた信念をもったアーティストが、結果に向かって勉強と試作を長年試みたけっかはじめて生まれる哲学なわけで、こんな感じでどうよ?こういう風にみえるだろ?ゆかいだろ?みたいなの屁ですよ。例外として若い世代からうまれる斬新な物事ののとらえかたはあるだろうけど勘違いしない方が良いね。ほとんどハズレです。
 逆にね、誰も見てない、何処でやってるんだか、どこにあるんだか、えらい不便なところでこれまた何が良いんだか?何がおもしろいんだか?なARTを高尚ぶって見せているギャラリーもねめんどくせえよ! たいしておもろくないよ! といいたい。
もっと必要とされながらもわかりやすくて深い、映画産業のようなARTのとらえ方で素晴らしいART哲学を経済的に回せる仕組みがない物か?  あっ だから村上隆は映画作るのかな・・ 
以前ターナー展というのを盛大にやっていた。丁度今年の2月3月だとおもう。海外で散々見た巨匠の絵が良い感じにレイアウトされたポスターを街でみると、すこし気になっていた。その理由が分かった。
 近代というのだろうか?最近の事、僕はオフロードバイクを乗るようになった。何度か借り物でいろいろ連れて行ったもらった時、これは現代における馬になっているのと同じだなと感じたからである。昔から乗り物は好きである。なぜならノーマル装備の自分では体感できない感覚や、いけない場所、見れない物を見せてくれるから。乗りこなすおもしろさとともに、生身ではいけない所まで僕をつれだしてくれる。

ターナーの絵を思い起こすとどうだろう、その絵は荒れ狂う自然に自国の先頭の風景や自分の感情を壮大な自然で表現した絵が多い。つまり、計り知れない宇宙的で驚異的な感情がまさに自然のような手のつけられない、近づけないおおきな力だという表現に使われていたわけだ。数百年前の人にとって、自然とは恐ろしく荒くれる手のつけられない巨大な壁であったことを見て取れる。非現実的な秘境の境地を絵のちからをかりて見たり見せたりしていたわけだ。

そこにくると現代ではどうだろう?近代文明と企業努力のおかげで乗り物や道具、衣類は格段に進化し、自然を恐れずにぎりぎりまで近づくことができるようになった。とうてい見ることが出来なかった辺境の風景をこの眼でみることができるよういなったのである。
これは、最高の贅沢ではないかと考えた。
そして僕はオフロードバイクを迷わずかった。大金持ちが最後に手に入れるたがるのもやはり非現実のような自然の風景である。現代において大富豪にならなくてもその景色はちょっとした出資と物の見方で手に入れることができることを知っていると得だと思う。
ようは何処をどうみているか?である。